三浦春馬さんが亡くなられた
自殺とみられている
30歳…
想像すらつかなかった…誰にも
何か悩んでいたのだろうか…
僕は31歳で一度生きる意味を完全に失った。
何のために生きれば良いかわからなくなった。
ある意味の依存なのかもしれないが、20歳から30歳は常に誰かの為に仕事をしてきた。
誰かの為の自分でしかなかった。立て直しの為に大阪に戻ったのに、大切な人を失い、仕事もうまくいかず、孤独だった。
基本的に僕は自分が嫌いだし、自分が好きだ、だから嫌いだ。
自分の為に働く意味がわからなかった。何のために生きていったら良いかわからなかった。
何故僕でなく姉が死んだのか、そんなことも考えた。
でも生きた。いや、単に死ぬ勇気すらなかっただけだ。姉の死がある意味止めていたのかもしれない。あんな母親は可哀想だと。
ただただ意味もわからず、夜中に肉体労働のバイトをし、少ない事業の仕事をした。寝不足で事故りかけたこともあったな。
あの頃の夜勤へ向かう風景、思い出すと今でもきつい。
そこからの3ヶ月後に東京から仕事が入る。
出稼ぎにいった。2016年7月15〜30日。昭島のタイムズに車を停め2週間車中泊。銭湯とコインランドリー。ただただ暑かった。暑さだけではなく心もすべて辛かった。どこかであがる花火の音。
出稼ぎ初日、応援で来られてたTさん。初めてお会いしたのに『どうしたら元気が出るだろう』と悩んでくれた。
内装の仕事があるということはありがたかった。
ちょうどこの頃に脱ステに出会う。車中泊の車の中で色々調べ、大阪に戻って今の薬が無くなったら脱ステしようと。そして脱ステの地獄が並行してここから始まるが、また別に記事に残してある。
大阪に戻り1週間後にまた1週間呼んでくれた。
その1ヶ月後9月にTさんが自分のに1週間呼んでくれた。
この時決意する、このタイミングで東京に戻ろうと。ラストチャンスだと。これで失敗したらもう人生終わりにしようと。腹をくくった。
大阪に戻り、東京へ行くために準備をスタート。親とは縁を切られた。
脱ステの影響でボロボロな上に寒気がする中、東京に家探しに。ここでもまたある人に救われた。個人レッスンをしていた女性が心配で付いてきてくれた。日帰りで家を決め、すぐ大阪に戻る予定だったが、体を休めろと。おそらく一人で決行してたら事故ってたと思う。
そして10月、半年ぶりに東京に戻る。
そこからはほぼ仕事がきれず生活できるようになったが、約2年脱ステの地獄をみる。
脱ステも乗り越え、仕事も順調な今思うこと。
生きてて良かった。
辛い時期は長かったけれど、生きてて良かった。
ただ思うこと。辛いこと、辛い時にはなかなか言えないということ。今になったからこそ色んなこと話せるということ。
続く